out of the hole

相談する事と打ち明けるという事。

明日合宿で卒論の中間発表とかあるのに、まして、まったく卒論進んでないのに、何かぼんやり思いついたから書いてみようと思ったやーつを全部終わった上で再構成して書いてみたやーつ。

誰かに悩みを話そうと思った時に、その悩みを細分化して様々なセグメントに分けたうえで多分、日本人は悩みを話すと思うのね。

例えば、最近恋愛がうまくいかなくて、結婚したいのにどんどん焦りだけ募ってしまって・・・とかだった場合、恋愛上手、既婚者、恋愛に比重を置いていたら、若い人に。結婚したいところに比重を置いていたら、先輩みたいに分けて、総合したうえで誰かを決定すると思うんだけど。

日本人はさらに自分でそこに関しての努力をしているか否かを付随するような感じがして。
つまり、誰かに相談するときは、そのことに関しての「一定」の努力を見せてからの人にお話を賜るっていう感じ。
もう、気軽さの欠片もねぇよ、そんなもん。確かに努力という キーワードって、自分が何かをする上で重要になるファクターだけど、それに縛られてしまったら、相談もクソもありゃしないよねっていう。

日本人て相談下手じゃないかなぁ。
聞きたいことが山ほどあるのに、何事もまず自分で努力をしてみてから。でも、何をどうしたらいいかわからないのにどうやって努力するのだろう。
よく耳にするお母さんが赤ちゃんを殺してしまうっていう話だって、お母さんがもっと頑張れば救われたのかといえばそうじゃない。赤ちゃんが泣く量を減らしていけたらいいかって。そういうことでもない。
相談するっていうのは、自分の人生をよりよくするために愚かな質問をどれだけ身近な人に出来るかっていうことで。それすらもクリアできない日本はどれだけ、追い詰められてるんだよっていう。努力理論もうやめようよ。
最大級に考えて、どうしたらいいかわからないから相談するんだよ。 っていうか、そこまで考えたくねーよ。
相談上手は生き上手なのかな。こんなこと聞いちゃってとか思わずに率直に思ったことを聞くっていうことは、生きやすい。それが一部しか浸透してないってことは愚かな質問をするということが如何に蛮行なのかっていうこと日本人が勝手に思っちゃってるわけで。
その裏側には、空気を読むとかそういうところから漏れ出る何か、めんどくさい察せよ的なものがあるからなのかなぁ。そこまで、察せないくせに人に要求しちゃダメだよ。人の行動の50手先を示すことなんてできないだろ。先読みは、人を喜ばせるために使うべきであって、人が怒らないように行動するために空気とかそういうものを使っちゃいけないよなぁ。