どっちでもないという選択肢。

家族とかそういう話。

親は子を選べないし、子は親を選べない。
もっと鼻が高ければとか頭がよければとかもっとダンディとか綺麗で物分かりの良い親だったらとか沢山の想いを抱えて過ごしている人も少なくないと思います。

もっと言うと機能不全家族だったり、裏切られたり、そういうわけでもないけど、日々の積み重ねでどうしようもなく自分で家族に対して身動きが取れなくなってしまっている人も多くいるんじゃないかなって思うのです。そうじゃなくて、家族が大好き!って親の側も子どもの側も思える関係であれば、僕はそれ以上に幸せなことはないと思ってます。

日本人は、親を嫌いとか子どもを嫌いって言うことを全く受け入れられないところがあると思います。その人のバックグラウンドとかを全て取っ払って、その好きか嫌いかというところをフォーカスして、「好きであるのが当たり前」派は嫌いという人たちに向けて、ビックリするくらい攻撃を開始するわけですね。

子ども側が「親を好きになれなくて困っています」というモヤモヤを抱えて相談している場合、それは好きになることが前提で、当たり前というところから話が発進しています。
嫌うということがどれだけ非人道的な行為なのかそれだけを生まれてから死ぬまで擦り込まれているから、そういう風に悩んでしまう部分もあるでしょう。
これは子どもにかぎらず、親の立場だって同じことが言えると思います。「子どもを好きになれなくて困っています」と。
本当に嫌いである場合、それが普通である場合、きっと親側も子ども側もそれを相談しないとおもいます。当たり前であることが当たり前にならないモヤモヤもあると同時に嫌いになりたくない、でも好きになりたいけど、なれないという本当の不安があるのでしょうね。
でも、何故、「普通」というグレーゾーンがまかり通る日本において、この問題を語る上では二項のみでの語り合いになるのでしょうか? 家族ってそんなに単純なものなのでしょうか??
僕はこういうときこそ、普通っていう言葉を使うべきなんじゃないのかと常々思います。そうやって頑張って考えて、でもやっぱり好きになれない、でもやっぱり嫌いになんかなれない!という人は絶対にたくさんいると思うのです。それだったら「どちらでもない」とか「普通」っていう言葉で表してもいいんじゃないでしょうか。ここの「どちらでもない」という言葉は決して、全く考えてないからこその言葉じゃなくて、考えて考えて考えた先の苦しみと理解と認知の勲章の証だと考えるべきだと思うのです。だって、手放しに好きと言えないし、嫌いだなんて、尚々絶対に言いたくない。

でも、本当にどうしてもどう考えても好きになれない人もいると思います。虐待とか肉体的精神的折檻を受けましたっていうクソな親や子どもである際は、憎いって言っても全く問題ないと思うのだけど、何で世の人はそんなに家族は繋がりあっているものだとしたいのでしょう?
だから、そういう人は嫌いと言い続けて、縁を選んでもいいのだと思います。
ただ、僕はそういうどうしても憎いという人を除いて、後に続く子どもが親よりも強い(寿命的にも思考的にも。たとえ、本当に親の背中は広いと思っても)という状況を鑑みて、出来る限り、親が亡くなる直前とかに嘘でも言いづらくても苦しくても怒りがこみ上げても「あなたの子どもで良かった、産んでくれてありがとう」と優しい嘘をついて上げるのが子どもの最後の子どもとしての役割かなと思います。それは好きとか嫌いとかを別にして、やっぱり、そういう道徳的な大団円的な言葉で締めたがるんだなと言われても、それはすべきではないかなと思います。

それ以外はね、本当にどちらでもないかなって思えるまで持っていけたらいいよね。
子どもから「どちらでもない」って言われたら、親はショックを受けると思うけど、あなたの子育ては間違ってないと思う。
親から「どちらでもない」って言われたらそれはそれでショックだけど、人としてもう自立の時期が来てるってことなのかもしれないね。家族だけど、もう親と子っていう関係を越えて、遠くにいる友人として過ごしていけたらいいのかもね。