ひと

人と人をつなぐことがたくさんの病を寛解させて行くのに重要じゃないかっていう話。

これ病気に関わらずだと思うんですけど、人とのつながりって、何をおいても重要になってくるファクターだと思うんですよ。これって、本当に人嫌いな人だとしても、つながっている感覚って、本当に重要で、孤独による様々な体験や技術習得の喪失とかで本当はできたかもしれないとかやれたかもしれないっていう想いは多分死ぬまで残ってくると思うんですよ。
いじめとか誰かに笑われたとかで学校生活を楽しめなかった人とかは多分、楽しそうにしてる人を見るたびに心が崩れるくらいのたうち回ると思うし。

3年間浪人(ほぼ引きこもり)をしてわかったことは、何をおいても辛いのは独りであるということなんですよ。誰にも自分の存在を認知してもらえないとか、誰にも自分を記憶してもらえないとか、どんな話をしても笑ってもらえないし、そもそもそんな機会がないっていう。
辛くて辛くてたまらなかったことしか覚えてませぬ。もう戻りたくないなと思うんですけど、いかんせん人と繋がるのがゴミのように苦手でびっくりするくらい繋がれない。繋がるという感覚が持てない。これがね、重大な感じでして。


人は変わらない。現実は変わらない。だから、自分が変わることで生きる世界への見方を変えるんだっていうじゃないですか。あれって本当のことで本当だからこそ受け入れてやり遂げるのがものごっついつらい。
本当は人の中に入っていくっていうのは難しいことじゃないのに、いろいろ考えてしまうが故に難しいものになってしまう。
人の気持ちをわかる人にとか人の立場をわかるよう育つのが良いことだと言われてますけど、一概にそういう風に断定してしまうのはよくないことだとおもいます。
それをうまく自分の中で咀嚼していなせる子はいいんです。でも、そうじゃなくて、額面通りにしか受け取れない子はどうしても、その言葉を金科玉条として、自分の中の根幹のルールにしてしまうわけです。

私は私なのだから、本当は相手の気持ちの全てを理解できるはずはないのです。
だから、言葉という武器を得たのに。人の立場を頑張って頑張って考えて、どうしよう、私がこう動いたらって夢想する。でも、その人はそんなこと考えてないかもしれないし、そうして欲しくないかもしれない。
だから、言葉を尽くして、対話を続けるしかないんです。

人の中に入っていくことが苦手な人は、慮りすぎて、聞いちゃいけないんじゃないかっていう質問を作り出すことに躍起になります。そうなると、最終的に出身地や趣味でさえ聞くことが強くなってしまう。
そうして、人嫌いや人の中に入ってくことが苦手になってしまったりね。

言葉足らず。気にしい。嫌われないよ。言葉から始めよう。人をつなぐのは言葉。そして、言葉。あと態度。
聞くことから。話すことから。伝えることから。