私の心アンロック

制限を外すということ。

なんか、生きる上で自分の心に寄り添いながら生きていくのは難しいのかなぁと考えたり考えなかったり。知らないうちにたくさんの物事に縛られて生きていくっていうのは、なんでなのかなぁって思うわけなのですが、これがわかったら、きっと日本人はもっと全体的に幸せになっていくのだろうなぁ。

日本人には15歳、18歳、22歳の時に「現実を見る」というある種の脅迫を伴って、自分の限界という誰も見たこともない何かを突きつけられるわけです。
「もっと頑張っている人がいるのに」
「お前なんかができるわけない」
「はやく、やめて現実を見なよ」
「もっとあなたにむいてることがあるんじゃないの」
「現実」「現実」「現実」「現実」それと「お金」「お金」「お金」
幾重にも心に鍵をかけながら、自分に鎧を纏いながら、誰かが決めたルールに則って、「きちんと」生きていく。
そうじゃない人もいる。どこかでその間違いに気づき、もしくはそのルールなんて嘘っぱちだと突っぱねて、生きてきた人。

誰かがつつがなく生きられるように頑張った人の先には自分の意思がない。
自分が好きなもの、自分の嫌いなもの、自分の腹が立つこと、自分が怖いと思うもの。そういうものにとってもとっても鈍感なのだ。びっくりするくらい、相手のそういうものに敏感なのに自分の光や闇をまるでないもののようにして過ごしているのです。
誰かの幸せを願い、幸せにするために行動してしまう人は、実は自分を不幸せにするように動いてしまっているのでする。

誰かの幸せを願う人との徹底的な差異は、それが他者と私という関係性を越えて、他者が自分に溶け合ってしまうところにあるのです。貴方の幸せは貴方の幸せはじゃなくて、貴方の幸せが私の幸せになってしまっているのでする。

こうやって、生きてきた人にとって自分がこれから選択をして生きていこうとするのはとても難しい。だって、自分の感情に鈍感で、今まで自分がどういうものなのかを考えるのではなく、他者にどう役立つのか考えて生きてきたのだから。
自我の芽生えという期間がある。でも、そのひとにとっての自我は未だ目覚めていないのかもしれない。

僕は「いい子」がクソほど嫌いです。というより頑張ったね、そんなに頑張らなくていいよ。好きなことやろうって言いたくなる。怒られていいよ、叱られていいよ。そのままだと16歳になった時、とっても辛いよって言いたくなっちゃうから。
自分にとってのいい子と他人にとってのいい子は違うんだよ。他人にとっていい子でいても他人はあなたに何も与えてはくれないんだよ。如何に貴方が他人に尽くしても、他人は永劫そのことを覚えていないし、尽くしたとも思っていないかもしれない。それに他人は貴方の決めたルールには絶対従ってはくれない。だから、他人が思ういい子になんかなんなくていいよ。ルールなんてないよ。やりたいことやりな。愚かな質問だってしていいし、怒ってもいい。

あと、さっさと恋しな。
俺もたくさん鍵かけた扉を前に今、必死で鍵を開けるために頑張ってるんだ。

どれだけ鍵を開けた本当の自分が辛辣でも嘘をついていくよりは楽だ。もう嘘をつくのはやめた。
毎度毎度、話がまとまらないなぁ。