ベビーシッターとかにみる叫びについて

なんか、いろいろシッター問題でわちゃわちゃしたとかしないとかって聞いたんですけど、あれって本当にバッシングしたくてバッシングしたわけじゃなくて、そういう若い層の無意識の刷り込みと叫びが関係してるんじゃなんじゃないかなって思ったわけです。

母親はこうあるべきっていう女性自身での制限がそういう一人の人間としての自己実現とか人生を楽しむっていう行動が許せなくなっていく。
「あんたを育てるのにどれだけ苦労したと思ってるの?」とか「誰が育てたと思ってるの?」とかそういう言葉の裏側には、親になったからには子どもに全て捧げるっていうものが当たり前になっていて。子どもが可愛いから、確実にそうなっていく側面はあると思うんだけど、そうであればあるほど自分が「何者」であるのかわからなくなっていく。外での肩書きがあれば、自分は「○○会社で働く佐藤です」とか言えるけど、そうじゃない場合は、赤ちゃんとの関係に埋没していくわけで。

子どもを育てるにはほぼ100%の自己犠牲が必要!みたいになっていることが結構辛いと思う。当事者にとってもこれから結婚を考えている人にとっても。子どもが生まれてからも母親としての人生以外にもその人の人生があるわけで。
だから、私がこんなに苦労してるのに、なんであの人はシッターを雇って!!!!ってなるよりかは、自分のあり方がどうかっていうのを考えるほうが心が落ち着くんじゃないかな。その子赤子から子どもへ育っていく過程でも我慢してっていうよりかはどうしたら生き良くなるかっていう感覚が重要になっていくんだろうな。そのためにはシッターを呼んでもいいと思うのさ。久々のデートっていうのは、親が近くにいれば、そのおじいちゃんやおばあちゃんにあたるひとに任せるけど、いなかったら、尚追い詰められていくじゃん。その連鎖をとめるにはどこかで空気穴を作ることだって必要なんだよ。

と書いたところで、ここまで旦那さん不在っていう面へ目を向けないっていうところが自分の中でも見つめ直さなきゃいけないポイントなのかなぁと思う。
小室淑恵さんが働き方のことをtedで講演して話題になってたけど、あれって子どもの成長的な意味でもお母さんの心の安定的な意味でも人生的な意味でも結婚的な意味でも重要なんじゃないだろうか。
9:00〜22:00とかの仕事でどうやって自分が好きであることとか楽しいと思ってることやるんだよとか家事に上手くコミットして行くんだよとか子どもと関わっていくんだよって思ってたけど、やっぱり働き方を見直さないと難しいよなぁ。でも、そんな簡単に働き方なんか変えられないし、会社側だってそんな簡単に働き方をかえるようなこころみをうちだすわけがない。自分が経験を重ねてないうちに俺みたいになんのスキルも何のコネも何もないっていう感覚からこういう物を見つめていくっていうのは無理だよなぁ。だって、そういうものがないんだから、しのごの言わずに頑張って働くっていうのが正しいスタイルでしょっていう風に思うし。

夫婦や働き方やたくさんの考え方が変わらない限り、こういうシッターに関する話題は尽きていかないんだろうなぁ。